2017年07月11日
栃木県のとある場所に工房を構える鈴木完吾さんを訪ねた。完吾さんは、カラクリ式の「書き時計」で一躍有名になった方だ。
大学の卒業制作で制作途中の「書き時計」を何気なくSNSへ投稿したことをキッカケに一気に拡散され、大きな反響を得た。取材中にそのことについて伺ったところ、このことに一番驚いたのは完吾さん自身であったようだ。「反響がなければきっと平凡に生きていたと思う。」と語ってくれた。それほどターニングポイントとなったのであろう。しかし、一躍有名になったことは同時にプレッシャーも生み出したようであった。「一番初めのインパクトを超えるのはなかなか難しいと思う。」ということも言っていた。
完吾さんは、どちらかというと派手なタイプではないし、進んでメディアに出たがるような感じの印象はない方であった。工房には、カラクリや時計づくりに関する本だけがシンプルに並べられ、作業机と機材類、他には制作途中の機構部品がたくさん置かれてるだけで「つくることが本当に好きなんだぁ」と工房の様子からもそう感じさせられたのだ。取材中も自ら進んで自己アピールするようなそぶりは全くなく、ものづくりのことになると「ドキッ」とさせられる核心的なことを言葉少なめにバシッ!と発してくれるような方であった。本について触れると、全部英語で書かれている愛読書を持ってきて「作品作りにどうしても必要で和訳しながら読んだんです。」と話してくた。
この後「完吾さんの根本になっているものは何かありますか?」と尋ねると「初めて聞かれました笑」と考え込ませてしまった。シンプルに「面白いから」作ってきたのだろう。実際、中学生の頃は文房具などを解体してよく遊んでいたらしい。解体したり作ったりすることが楽しかったから、ゲームなどもそんなにしなかったのだとか。
さすがと言うべきか、そんな完吾さんが一躍有名になるきっかけとなったあの書き時計はなんと、制作期間わずか10ヶ月とのことであった。しかも、あれが完吾さんの「第1作目」であったらしい。書き時計を作るまでは、ほとんど作品などは作ったことがなかった。しかもその10ヶ月の中には時計自体の研究期間も含まれている。とんでもない集中力と継続力だ。集中できる人はたくさんいるが、その集中を継続できる人となるとそう多くはいない。この継続的で深い集中力こそが完吾さんの作品制作を支えているものなのかも知れない。
なぜそんなに集中力を継続できるのか聞いて見たところ、「こう言うのは一気に作らないといけないんです。すごく集中して細かなことをするから、一度中断すると思い出すのに時間がかかったりする。」 「作品とは関係ない日常的ないろんな不安を考えたりすることもある。それで手が止まったりもするんだけど、そう言う時は逆に作って忘れようと思っている。」 と話してくれた。
また、取材中に1作目の書き時計の知識を応用した、2作目となる「タイムキャッスル」を見せてくれた。これは3分間を図ることのできる文字書きタイマーだ。こちらの2作目はなんと制作期間はわずか5ヶ月だという。
ちなみにこちらのタイムキャッスルは、MADE IN JAPANの高品質な時計で知られる時計メーカーシチズンさんのPVにも使用されている。
これらの書き時計だが、制作に至る小さなキッカケがあった。それは大学の先輩が振り子時計を自作していたことだ。それを見て「これに『カラクリ』『書く』と言う動作を入れたら面白そう」と思ったのがキッカケであった。
カラクリの魅力を尋ねたところ、「電気などを使わずに、自分の手を離れても動いているのが生き物のようで面白い」とのことであった。構造的に簡略化したものよりも、昔の人たちが頭を使って作り出してきたものが好きで、そうした古き良き部分を掘り下げたものづくりに価値を感じるし、楽しいのだという。だから電気を使うことにはあまり興味がないとも話してくれた。たとえば少し前まではリンク機構などが使われていたものでも、今はプログラミングでやってしまっていたりするのだが、完吾さんはリンク機構をタイムキャッスルの中で復活させている。
しかも、そのほとんどが湿気などでの変形が激しい木材で作られている。そのことについて尋ねてみると「金属はのぺっとしていて無機質だけど、木は手に馴染むしあったかいのが生き物っぽくて好きなんです。木の方が難しいからこそ、面白い。」と素材へのこだわりも話してくれた。そうしたこともあり、完吾さんはあらゆる木材の性質を熟知しているようであった。強度や粘りなどを考慮して最適な木材を使い分けてカラクリを組み立てている。
作品に木材を多用する完吾さんはこれまで糸鋸を使い多くの部品を加工されてきている。そんなこともあり「工房に当社のKitMill RZ300を置いてくれてはいるが、材料をたくさんのネジで固定したり、いちいち加工データをつくるよりも糸鋸でやったほうが早いって思っているんじゃないかな。」そんなことを思いながら、ふと取材中に工房を見渡して見るとRZが置かれている作業台の下に数え切れないほどの加工された木材が置かれているのが見えた。(正直ここまで活用いただけていると思わなかったので本当に嬉しかった。)
当社のKitMillは、糸鋸などでは加工しにくい立体的な形状の部品や、金属の加工にはもってこいだ。けれども、完吾さんは平歯車のような単なる切り抜きにも活用してくれていた。どんなに糸鋸に慣れていても細かい歯の形状まで糸鋸でつくるのは、さすがの完吾さんでも骨が折れるのかもしれない。書き時計のような素晴らしい作品に、製品が少しでも活用されていることは当社にとっては本当に嬉しいことなのだ。
完吾さんの書き時計にはふんわりとした柔らかなアンティーク感が漂う。材料はほとんど木材だし、動力源も電気ではなく錘、制御はプログラミングではなくカラクリを使用している。それにより一見「新しさ」とは逆行しているようにも見える。
「古い感じのものが好きなのかな?」そう思った私は完吾さんに最近次々と世に出てくるガジェットなどの「新しいものづくり」には関心がないのかを尋ねて見た。すると、完吾さんは私の予想とは真逆の答えをしてくれた。
私:「最近のガジェットなどの新しいものはどう見ていますか??」
完吾さん:「僕は新しいものが作りたいから、あまり興味がないんです。」
私は一瞬「どゆことだろう??完吾さんの作っている作品はどれも古い感じが良さな気もするのだけど...」と思ってしまった。
けれども、「新しいものを作りたい」と書き時計の外観とは矛盾している言葉を完吾さんは何の迷いもなく言っていた。つまり、完吾さんにとって「木材」も「動力源が錘なことも」「カラクリ」も、さらには時を刻むためにわざわざ「書く」と言う遠回りな動作をさせることも「新しい」と言うことなのだ。この部分にこそ、完吾さんのクラフトマンシップが深く関係しているように感じられた私はさらに質問を重ねて見た。
私:「ガジェット系のものづくりは古いということですか??」
完吾さん:「そういうことではないんですが、次から次へと新しいものが出てくるのを見ていて「またか」と僕は感じてしまう。深さを感じられなくて、僕は深みのある新しいものが好きなんです。」
私:「なるほど。」
完吾さんのいう「深みのある新しさ」という言葉、日本人の私たちにはすんなりとわかるものではないだろうか。けれども、この完吾さんの言葉を聞くまでかくいう私自身「新しい」という価値観を完吾さんのそれとは全く違う感覚で捉えてしまっていたように思う。
「便利なもの=新しい」「今までになかったもの=新しい」「最先端なもの=新しい」...といった具合だ。確かにこれらも新しいことに変わりはない。世の中を便利にしてくれる大切なものだ。けれども、完吾さんの考える新しさには深みが必要だというのだ。日本が世界に提示できる新しさはもしかしたら、世界標準の「最先端」とは一線を画したものなのかもしれない...。ふと、そんなことを思わされた。
「完吾さんは本当に日本人らしいつくり手だなぁ」と思わされた。ものを作っているのにものに宿る物質的ではない価値観をとても大切にされているように思えたからだ。
今後世界は、さらなる人工知能の発達に伴い「数値化できるもの」は価値を少しずつ失っていくだろう。なぜならば数値化できるものは人間でなくても作れてしまうからだ。だけども、その人工知能を作り出しているのは人間だ。私たちはまさにそれらの話題につい夢中になり、人工知能を搭載した「最先端」のガジェット類だけを新しいものだと思い込んでしまっている節がある。
それらガジェット類に比べて、完吾さんの書き時計はまったく最先端ではない。それどころか今はもう使われていないあらゆる機構や技術で作られている。けれども書き時計のようなものは、絶対に人工知能では作ることはできないだろう。なぜなら、人の手を通してでなければ作品の中に込めることのできない価値が凝縮されているからだ。そして私たちは、そのなんとも言葉では形容しがたい価値に確かに気が付いている。
こうした「人工知能では作り出せないもの」に新しさを見出す完吾さんの感性とその作品は、口下手な日本人が表現したくてもうまく言えない「深い価値」を代弁してくれるものなのかもしれない。だからこそ、書き時計の投稿はSNSで一気に拡散されたのだ。そして、こうした価値観は日本人が職人的なものづくりの中でずっと大切にしてきたものなのだ。
何もかもが便利になり、効率化され、消費されゆく時代に生きていて私たちはなぜ、完吾さんの「便利ではない作品」に惹きつけられるのであろう。
もしかしたら、まさにそれが「不便だから」なのかもしれない。ある意味で人の歴史とは、無駄や不便さを削ぎ落とし、効率的で便利な世の中にしてきた歴史だ。だけども、私たちはなぜだか、そうした中でも不便なものをどうしようもなく求めてしまったりする。それは今も昔も変わらない。
それは不便なものには人の「手間」が必要だからだ。だからこそ、愛情の目で見てしまう。そこに何か失ってはいけない温かさみたいな充実感を私たちは感じている。完吾さんの書き時計は、使用者が手間をかけて調整してあげることで初めて、ようやく時刻を刻み出す。しかもただ刻むのではななく、今の時代にはいささか大層な機構がガチャガチャとわざわざ大きな音を出して数字を書いてくれるのだ。しかし、こうした手間をかけてやっと刻まれた時刻を見るとき、私たちは過ぎ行く時の一端に感動できるのかもしれない。
日本のものづくりは今後、世界のどの国もまだ気づいていない「深みのある新しさ」を届けていこうではないか。そんな勇気と進むべき方向を彼に教わった気がした。
編集後記:
後日、独立時計師の浅岡肇さんのアトリエに完吾さんと一緒におじゃまさせていただいた。浅岡さんは世界でも10人程しかいない日本では初めてとなる「独立時計師」の一人で、たいへん有名な方だ。その浅岡さんから「鈴木君さえよければときどき時計を見せにきなさい。相談にのるよ」という言葉を頂いた。私もそれを聞いてすごく嬉しくなってしまった。
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